1回の記事アップで済ませるつもりが、こんなに連載になるとは思ってなかった(苦笑)
はい、前記事からの続きです。
私の仮説、「河童≒カクレキリシタン」を成り立たせるためには、
「どちらも瓢箪が嫌い」という共通項を証明したかったのです。
でもキリシタン一揆の総大将天草四郎は豊臣秀吉と同じ馬印…。
それについて調べていくと、おもしろい都市伝説がありました。
なんと、天草四郎は豊臣秀頼の子だというのです。
「耶蘇天誅記(やそてんちゅうき)」には、四郎のことを豊臣秀頼の落胤たる「天の四郎秀綱」であると称したこともあると記されているようです。
通説では、豊臣秀頼は大坂夏の陣で淀殿とともに23歳で自害していますが、その遺体は見つかっていません。
息子の国松も、逃亡したものの京都の六条河原で斬殺されたことになっています。
伝説では、秀頼は大阪城からこっそり脱出し薩摩に渡ったとあります。国松も実は処刑されたのは影武者の少年だったと。
秀頼は薩摩で木下性を名乗り、そこで数人の側室を持ち3人の息子と1人の娘をもうけています。
この中の末っ子の男子が「羽柴天四郎秀綱」であるということなのです。
浪人「益田甚兵衛」の息子とされている四郎ですが、これが事実なら甚兵衛が45歳の時の子です。
母親の「マルタ」の年齢がわかりませんが、よほど若い妻でない限り当時の普通の夫婦では考えにくい年齢の時の子になりますね。
また四郎は品位もあり、学問や兵学、武術にも優れていたようです。
これはにわかに仕入れた知識では不可能です。小さい頃から帝王学を修めてきたからではないかと。
また、島原の乱における一揆軍の軍資金の出どころも不可解なことです。
一揆を起こした要因にもなっている飢饉による貧困。
普通に考えても農民たちにこれだけ多額な資金を用意できるわけがありませんものねぇ。
と、豊臣の埋蔵金っ?!
島原の乱は、キリシタン一揆という名のもとに立ちあがった豊臣の、徳川に対する起死回生の戦であると?!
調べているうちにすっかりミラクルワールドへ迷い込んでしまった気がしました。
河童をとっかかりに島原の乱まできたけど、なんだか河童どころじゃないような気が…。
本当に天草四郎の馬印は金の瓢箪なのか。
その馬印を見たくてネットで探しましたがなかなかみつからない。
これは行かんばでしょう!馬印を調べに!
ほぃ来た。(はやっ)
天草切支丹館です。
生月博物館「島の館」と同じく、カクレキリシタンにまつわる展示物がありとても興味深く見させてもらいました。
生月のカクレキリシタンは納戸というちょっとした物置きみたいなところに御神体を隠して、カモフラージュ的に仏壇や神棚なども一緒に祀りながら信仰を続けてきたのですが、天草のカクレキリシタンは天井裏に御神体を祀り、隠し階段や隠し扉で人々も隠れながら信仰を続けていた、というちょっとした違いが新鮮でした。
館長さんの案内により、天草四郎の血ぬられた陣中旗も拝見することが出来ました。
しかし、どこをみても瓢箪の馬印がありません。
展示物がないなら絵の中に?
目を凝らして合戦の模様の絵の中を探したのですが、ない・・・。
帰り際に恐る恐る館長さんに尋ねてみました。
するとニヤッとしながら「では後日史料をお送りいたしましょう」とのこと。
この「ニヤッ」が気になったのですが、後ろ髪を引かれる思いで天草を後にしました。
数日後。
史料がきたきたきたー!!
封を開ける指がもどかしいくらいに急いで開けてみると、2つの史料が入っていました。
まずは四郎の金の瓢箪の馬印について。
同じ瓢箪の馬印ということで、秀吉と四郎を関係者のように考える向きもありますが、これは聖ヤコブが瓢箪のついた杖をついていたと考えられるためで、秀吉とはなんの関係もありません。
ということ。
そしてもう1つの史料は、天草四郎の遺宝のありかに関する文献でした(爆)
なぬっ!遺宝となっ!
暗号らしき文面やかなり詳しい地名などがあり、読んでいるとなんだか本気になってきそうです。
本当に埋められているのか?
これは豊臣の財宝もあるかもしれぬぞ。
行くか?掘りに行こうか?
しかしこれだけ詳しく情報があるなら、すでに誰かが掘り当てていそうなものです。
これは館長の「宝探しにまた天草に来てねん」という遠回しの観光誘致であると判断しました(笑)
頂いた史料には、天草四郎が豊臣秀頼の子であるという都市伝説についての詳しいことも書いてありましたが、それまで触れるとこのシリーズ連載が止まらなくなるのでここでは割愛させていただきます。
慶長4年(1599年)。生月からキリシタン信者600名が長崎に脱島しています。
その38年後に島原の乱が起きています。
もしかしたら生月出身の信者も島原の乱に参加していたかもしれないと思うと、なんだか不思議な縁を感じました。
これで天草四郎の馬印と豊臣秀吉の馬印は無関係ということがわかりました。
河童≒カクレキリシタン説、まだまだ粘れそうです!
生月のため池の脇には、猿の石像が置かれていたりします。
これは河童が悪さをしないように、見張り用に猿の石像をおいていると思われています。
河童をカクレキリシタンと置き換えると…
水際近くに隠れているキリシタンたちを追い詰めようと、目を光らせる猿の手下(お役人)のイメージがオーバーラップしてきて、なんだか当時の生月の状況に胸が重くなるような気持ちになるのです。
河童というフィルターを通してカクレキリシタンたちの当時の様子を探る旅は、私の中でまだまだ続きます。
終わり。とりあえず。