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2013年08月21日

MY妖怪ワールド

1-DSC03751.JPG




これね、妖怪折り紙なんですぴかぴか(新しい)



外国の折り紙ファンの方達のために英訳もついて、24種類の妖怪折り紙と折り方の説明つきです。

二口女
豆狸
おとろし
元興寺(がごぜ)
白うかり
赤口
ぬっぺっぽう
一つ目小僧
天狗
不落不落(ぶらぶら)
犬神
人魚
五体面
産女(うぶめ)
手の目
雨降り小僧
垢嘗め
網切り
濡れ女
二本足
ろくろ首
小豆洗い
河童
天井下り

これらの妖怪たちが貴方に折られるのを待っていますモバQ揺れるハート

本のカバー裏にお墓のグラフィックがプリントされているので、
妖怪たちを並べるだけで、あっという間に自分の部屋の一角が真夏の墓場に早変わりw

ロウソクを灯し、電気を消して、妖怪たちを眺めてみませんか?
きっと暑さも忘れることでしょう。




…あぢぃー!!!


そう簡単に忘れられる暑さじゃないな。
妖怪で暑さがしのげるなら、クーラーいらないしねぇ^_^;



   

posted by shell at 21:00 | 長崎 ☀ | Comment(2) | 精霊・妖怪探し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2013年08月01日

一反木綿激写か!!


小さな頃から妖怪本を眺めるのが好きだったけれど、生月という島に来てからは妖怪を捜すのが好きになってしまいました。
だって、いろんなモノがいるんだものここ。
「山童」と「すねこすり」と「座敷わらし」は体験しました。

私が密かに河童を追っていることは周りにバレつつあり、「河童好きねぇ」なんてよく言われますが、好きなんじゃないからね。河童の正体を暴きたいだけなのです。
そしてその存在を確信したら一言いいたいのです。本当は胸ぐら掴んで文句言いたいのですが、掴むところなさそうだし。ぬめぬめしてそうだし。

というわけで、河童以外の妖怪は好きなので捜しまわったりしています。
そしてなんと!その姿を見つけましたよ!

その妖怪の名は「一反木綿」!

一反木綿といえば、鬼太郎に出てくるものが有名です。
鹿児島弁で気さくなおじさん風味な妖怪ですよね。

facebook_565671677.jpg



実は人にまきついて窒息死させるなんて怖い性質を持っていたりするのですが、鬼太郎に出てくる一反木綿のイメージが強すぎて、人気上位の妖怪だったりします。

その一反木綿の写真をなんとゲットしました!
実はこの写真は数年前に友人からもらったものなのですが、しっかりデータを取っておいたはずなのに
ハードディスクの中をいくら探しても見つからず…。ふわりふわり逃げてしまったようで、再度お願いしてもらったものです。
今度は無くなる前にちゃんとアップしとかなくちゃ。


撮影場所は岡山県上空。
一反木綿の大きさは約一反(長さ約10.6メートル、幅約30センチメートル)だそうですが、この写真の一反木綿も下の木々と比較するとかなり大きなもののように感じます。

さぁご覧ください。半透明の一反木綿です。
CA390204-0001.jpg



えっ、これ煙じゃね?

いんや、ふんどしやろ。





いいえ!いったんもめんですっ!









posted by shell at 21:48 | 長崎 ☁ | Comment(0) | 精霊・妖怪探し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2011年07月16日

河童とカクレと島原の乱B

1回の記事アップで済ませるつもりが、こんなに連載になるとは思ってなかった(苦笑)

はい、前記事からの続きです。



私の仮説、「河童≒カクレキリシタン」を成り立たせるためには、

「どちらも瓢箪が嫌い」という共通項を証明したかったのです。


でもキリシタン一揆の総大将天草四郎は豊臣秀吉と同じ馬印…。


それについて調べていくと、おもしろい都市伝説がありました。


なんと、天草四郎は豊臣秀頼の子だというのです。

「耶蘇天誅記(やそてんちゅうき)」には、四郎のことを豊臣秀頼の落胤たる「天の四郎秀綱」であると称したこともあると記されているようです。


通説では、豊臣秀頼は大坂夏の陣で淀殿とともに23歳で自害していますが、その遺体は見つかっていません。

息子の国松も、逃亡したものの京都の六条河原で斬殺されたことになっています。


伝説では、秀頼は大阪城からこっそり脱出し薩摩に渡ったとあります。国松も実は処刑されたのは影武者の少年だったと。

秀頼は薩摩で木下性を名乗り、そこで数人の側室を持ち3人の息子と1人の娘をもうけています。

この中の末っ子の男子が「羽柴天四郎秀綱」であるということなのです。


浪人「益田甚兵衛」の息子とされている四郎ですが、これが事実なら甚兵衛が45歳の時の子です。

母親の「マルタ」の年齢がわかりませんが、よほど若い妻でない限り当時の普通の夫婦では考えにくい年齢の時の子になりますね。


また四郎は品位もあり、学問や兵学、武術にも優れていたようです。

これはにわかに仕入れた知識では不可能です。小さい頃から帝王学を修めてきたからではないかと。


また、島原の乱における一揆軍の軍資金の出どころも不可解なことです。

一揆を起こした要因にもなっている飢饉による貧困。

普通に考えても農民たちにこれだけ多額な資金を用意できるわけがありませんものねぇ。





と、豊臣の埋蔵金っ?!


島原の乱は、キリシタン一揆という名のもとに立ちあがった豊臣の、徳川に対する起死回生の戦であると?!



調べているうちにすっかりミラクルワールドへ迷い込んでしまった気がしました。

河童をとっかかりに島原の乱まできたけど、なんだか河童どころじゃないような気が…。



本当に天草四郎の馬印は金の瓢箪なのか。

その馬印を見たくてネットで探しましたがなかなかみつからない。


これは行かんばでしょう!馬印を調べに!



風と信仰を紡ぐ島【生月ikitsuki】 


ほぃ来た。(はやっ)


天草切支丹館です。

生月博物館「島の館」と同じく、カクレキリシタンにまつわる展示物がありとても興味深く見させてもらいました。


生月のカクレキリシタンは納戸というちょっとした物置きみたいなところに御神体を隠して、カモフラージュ的に仏壇や神棚なども一緒に祀りながら信仰を続けてきたのですが、天草のカクレキリシタンは天井裏に御神体を祀り、隠し階段や隠し扉で人々も隠れながら信仰を続けていた、というちょっとした違いが新鮮でした。


館長さんの案内により、天草四郎の血ぬられた陣中旗も拝見することが出来ました。

しかし、どこをみても瓢箪の馬印がありません。

展示物がないなら絵の中に?

目を凝らして合戦の模様の絵の中を探したのですが、ない・・・。


帰り際に恐る恐る館長さんに尋ねてみました。

するとニヤッとしながら「では後日史料をお送りいたしましょう」とのこと。


この「ニヤッ」が気になったのですが、後ろ髪を引かれる思いで天草を後にしました。



数日後。


史料がきたきたきたー!!

封を開ける指がもどかしいくらいに急いで開けてみると、2つの史料が入っていました。


まずは四郎の金の瓢箪の馬印について。


同じ瓢箪の馬印ということで、秀吉と四郎を関係者のように考える向きもありますが、これは聖ヤコブが瓢箪のついた杖をついていたと考えられるためで、秀吉とはなんの関係もありません。


ということ。


そしてもう1つの史料は、天草四郎の遺宝のありかに関する文献でした(爆)


なぬっ!遺宝となっ!

暗号らしき文面やかなり詳しい地名などがあり、読んでいるとなんだか本気になってきそうです。


本当に埋められているのか?

これは豊臣の財宝もあるかもしれぬぞ。

行くか?掘りに行こうか?


しかしこれだけ詳しく情報があるなら、すでに誰かが掘り当てていそうなものです。


これは館長の「宝探しにまた天草に来てねん」という遠回しの観光誘致であると判断しました(笑)


頂いた史料には、天草四郎が豊臣秀頼の子であるという都市伝説についての詳しいことも書いてありましたが、それまで触れるとこのシリーズ連載が止まらなくなるのでここでは割愛させていただきます。



慶長4年(1599年)。生月からキリシタン信者600名が長崎に脱島しています。

その38年後に島原の乱が起きています。

もしかしたら生月出身の信者も島原の乱に参加していたかもしれないと思うと、なんだか不思議な縁を感じました。


これで天草四郎の馬印と豊臣秀吉の馬印は無関係ということがわかりました。

河童≒カクレキリシタン説、まだまだ粘れそうです!


生月のため池の脇には、猿の石像が置かれていたりします。


風と信仰を紡ぐ島【生月ikitsuki】 

風と信仰を紡ぐ島【生月ikitsuki】 

これは河童が悪さをしないように、見張り用に猿の石像をおいていると思われています。



河童をカクレキリシタンと置き換えると…


水際近くに隠れているキリシタンたちを追い詰めようと、目を光らせる猿の手下(お役人)のイメージがオーバーラップしてきて、なんだか当時の生月の状況に胸が重くなるような気持ちになるのです。


河童というフィルターを通してカクレキリシタンたちの当時の様子を探る旅は、私の中でまだまだ続きます。



終わり。とりあえず。

posted by shell at 23:00 | 長崎 ☁ | Comment(0) | 精霊・妖怪探し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

河童とカクレと島原の乱A

前記事からの続きです。



また河童が嫌いなものに仏飯や金物(鉄や刃物)があります

これもまた宣教師やキリシタンたちも嫌いな理由の説明がつきます。


そして瓢箪。

河童と瓢箪の関係は細かい違いはあれども、同じような民話はあちこちにあります。


旱魃(かんばつ)のために田に水が入らず困り果てた百姓(庄屋のケースもあり)が、河童のおかげで田に水が入り、そのお礼に娘を嫁にやる約束をした。

しかし悩む親を見かねて娘は河童に「このひょうたんを沈めることができたら嫁になろう」と持ちかける。

河童は承諾し、ひょうたんを沈めようとするが、沈んでは浮き、沈んでは浮きするひょうたん。

結局河童はヒョウタンを沈めることが出来ず、娘は嫁にならずにすんだ。

というのがおおまかな筋です。

こういうことから河童は瓢箪が嫌いとされています。


これもまた、キリシタンたちが瓢箪を嫌いであることに説明がつきます。


前記事に述べた軍旗、馬印。

これは戦国時代から江戸時代において、大将が敵方に自分の位置や武威を誇示するために自分の近くに置いた旗のことです。

今の時代の戦争は最高司令官の居場所は最後まで隠しますが、昔は大将同士「やぁやぁ我こそは!」などと名乗りをあげて戦っていたようですね。

これもまた鉄砲隊がでてきてからは、名乗っているヒマはなくなったようですが。



さて、この大将の顔ともいえる馬印。実は豊臣秀吉の馬印が金の瓢箪なのです。

豊臣秀吉といえば、キリシタンたちが大っ嫌いな武将です。

その武将の顔ともいえる馬印の瓢箪も嫌いであるというのは、容易に想像がつきます。


しかしある情報を偶然知ってから、頭の中が混乱しました。

それは島原の乱の総大将である天草四郎の馬印が、金の瓢箪であるということ。


んん??

島原の乱は確かキリシタン一揆のはず。

キリシタンは豊臣が嫌い…瓢箪も嫌い…のはず。

厳しい弾圧に耐えきれなくなって、キリシタン農民たちが立ち上がり一揆を起こした。

なのにその総大将の馬印が瓢箪ってどういうこと??



Bに続きます。


posted by shell at 11:26 | 長崎 ☁ | Comment(2) | 精霊・妖怪探し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2011年07月15日

河童とカクレと島原の乱

昨日久しぶりに熱がでました。

あまりに節々が痛く、立ちあがったり座るのも一苦労で

「体重が重くなってるから、関節に痛みが来たか・・・」

なんて思ってたのですが、喋るのもきつくなってきて熱を測ってみたら37.8℃。


久しぶりすぎて発熱の感じを忘れてました。

今日は熱は下がり、喉の痛みだけあります。

チビにうつさないようにしないとなぁ。(´д`lll)


今日は家事を最小限に抑え、横になりながらツイッターを流し読みしてたら興味深いTLが。
なんと、
天草四郎の陣中旗は四郎のものではないらしい?!


このことも歴史を覆すおもしろい発見ですが、私は忘れてました。島原の乱の謎を解いている途中だったってことを。



まず天草四郎の陣中旗というと、聖杯の中に十字架の聖体が置かれ、左右に2人の天使が礼拝しているものがあります。

弾痕や血痕がついていたりして、当時の状況の生々しさを教えてくれるようです。

これは山田右衛門作(やまだ えもさく)という南蛮絵師が城中で描いたものとされ、歴史の教科書かネットで検索すればすぐにわかるので興味のある方は調べてみてください。

ジャンヌ・ダルク、十字軍とあわせ、世界三大軍旗とされています。

ちなみに島原の乱で一揆軍ではこの山田右衛門作がたった1人生き残っています。



じつはこの陣中旗は籠城軍の軍旗で、四郎は大将旗(馬印)として別のものを使っていました。


この馬印が、私が引っかかっているものなのです。



私は生月の河童や全国の河童、生態などについて調べているうちに、日本全国津々浦々これだけ有名な妖怪って他にいないんじゃ?と思い始めました。不思議と老若男女みんな知っていますよねぇ。

一反木綿やぬりかべも有名だけど、目撃情報や文献の多さからして河童の比じゃありません。

実はね、これだけ有名なのには訳があります。

それは




実際にいたからです!!ドーン!(爆)


いや、「いた」というと語弊がありますね。

河童にさせられた、または河童という存在を利用した者がいる

というのが正しいです。

河童という呼び名は比較的新しく、明治頃に定着したようです。

それまでは河伯(かはく)や水虎(すいこ)、あとはその土地土地で様々な名前があります。

河童が世間に急激に広まりはじめたのが江戸時代。
またちょうどその頃、世間から身を隠すように歴史の水面下に潜っていったのがカクレキリシタン。


私は河童の正体に、カクレキリシタンの存在あり!と睨んでいます。

その理由はいくつかあるのですが厳選して挙げると、

☆河童伝説がある地域とキリシタン集落またはカクレキリシタン集落がある地域が一致する。
これは現在長崎県内のみ確認していますが、全国を調べてみるとかなり面白いことがわかるんじゃないかと1人鼻息を荒くしています。

☆河童とキリシタンは猿嫌い。
河童と猿は大の仲良しの大反対。お互いだいっっ嫌いらしいです。
なぜそういわれているのかはわかりませんでしたが、当時のキリシタンたちが猿を嫌いな理由に気付いたとき、河童の正体はカクレキリシタンだ!と閃いたと言っても過言ではありません。

そう、キリシタンたちは猿が大嫌いなのです。

えぇ、猿と呼ばれた武将がだいっっ嫌いDASH!

お分かりでしょうか?
猿と呼ばれていた豊臣秀吉は、伴天連追放令を出しています。

イエズス白書にも書いてありました。

「巷で猿と呼ばれている秀吉なるもの、ちと苦手…ってか嫌い」(注 原文の正しい訳ではありません)


ちなみにこの伴天連追放令の原本は平戸市の松浦(まつら)史料博物館 に所蔵されています。


禁教を受けた全国のイエズス会宣教師たちは平戸に集結し、以後公然の布教は控えるようになります。


そして徳川家康によるキリスト教禁止令に繋がり、宣教師やキリシタンたちは本格的に弾圧を受ける時代に突入していくのです。

長くなるので、次の記事に続きます。








posted by shell at 21:59 | 長崎 ☁ | Comment(0) | 精霊・妖怪探し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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