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2017年09月20日

映画「沈黙サイレンス」


先日ひっさしぶりにガイドをしてきました

コースはキリシタン巡礼コース。最低限のことは覚えておかなければ、と改めてキリシタン関係の資料を見直しているうちに思い出した事がありました。

そういやまだ「沈黙サイレンス」観てない!!

原作遠藤周作「沈黙」を読んでの感想はこちら沈黙

記事内で「映画を絶対観るぞ!」なんて断言してるくせに、観に行ってないというね。


というわけで今更ながら「沈黙サイレンス」を観てみました。
アマゾンビデオにはなかったので、グーグルプレイで購入。これで何回も観れるぞ♪



感想はというと。


それぞれの人々の心情や思いが痛いほど伝わってきて、でも歯車が合わずに苦しみ悶える姿に救いはあるのだろうか…。だたひとつわかったのは、パードレたちや切支丹たちは時代の被害者なんだろうな、ということ。

日本がなぜキリシタン弾圧をしなければならなかったのか、その理由がここでは描かれていないけど、確実に言えるのは日本がキリシタン弾圧をしなければならなくなった理由を作った当事者ではないのに、少し時代がずれただけで苦しまなければならない人たちがいた、ということに悶々しました。


1つ気になったところがあって、ラストにロドリゴ神父(岡本三右衛門)が樽の棺に入っていて、妻が厄除けの小刀を入れるシーンが有るのですが、その時なにか一緒に入れたような気がしませんでしたか?

なにか「ん??」と思うような手つきだったよね?

そして次のシーンでロドリゴの手のひらの中にモキチがくれた十字架が握られていました。


原作ではロドリゴは完全に棄教したような書き方だったと思ったんだけど、違ったかな?もう一回読んでみよう。記憶では日本人として人生を全うしたように思っていたので、最後に十字架が出てきたところにはプチ違和感を覚えました。

私の推測ですが、これは妻が入れたのでは?と思っています。

「妻が泣くことはなかった」とナレーションが言っていたけれど、妻はこのロドリゴが味わってきた苦悩を知っていたのではないでしょうか。
夫が亡くなっていきなり異国の男が夫の名を名乗りこれからは夫だと言われても、愛情も何もなかったと思いますが、長い間一緒に暮らしていたら情も湧くのではないでしょうか。ロドリゴは女性にも優しかっただろうし。


もしかしたらロドリゴが「死後、棺に入れてくれ」と頼んでいたかもしれないけれど、それは考えにくいかな。私が思うに妻の判断で入れたような気がします。

ロドリゴ本人は信仰を捨てていたけれど、モキチから貰った十字架は信仰とは別に大事にしていたことを妻は知っていたのではないかと思います。ロドリゴが死んだ際も「やっと楽になれたね、あんた」みたいな思いがあり、泣くことはなかったんじゃないかなと感じました。


ロドリゴは段々と、人そのものの中に神はいると思い始めたのかな。

その十字架も自分のものだったらとっくの昔に手放していたのでしょうが、モキチという1人の人間からもらったものだから大事にしてたのだろうし、同じくキチジロウにも「一緒にいてくれてありがとう」と言っていますしね。



しばらくしたらまた観てみよう。

観るたびに違う感想が出てくるかもしれません。





 

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posted by shell at 15:43 | 長崎 ☁ | Comment(0) | ボランティアガイド活動記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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